LGBTに関する記事を見ると心が揺れてしまう。

たまたま

 

ハウスビル2

 

http://genxy-net.com/post_theme04/513116l/

 

に関するニュースを見かけた。

 

こういうニュースを見るといつも心を揺さぶられる。

 

何故か?

 

多分

 

自分が自分であることを許されない苦しみが

少しわかるからだと思う。

 

当たり前のことが

当たり前ではない人々のことを

考えてみることがある。

 

男性なのに

男性として当然のこと

 

例えば

男子トイレに入るのに抵抗を感じて

入りたくない人のこととか

 

女性なのに

女性のことを好きになってしまう人のこととか。

 

多分

小さい頃は

自分にとって普通のことだったのだと思う。

 

成長するにつれて

自分が

人と違う感覚を持っていることが

段々わかってくる。

 

それは

多分

冷たい視線だったり

聞きたくない侮蔑の言葉だったり

理不尽な暴力だったりしたのだと思う。

 

多くは

否定的な反応から

学んできたのだろう。

 

隠さなければいけない。

 

多くの人は

一度

普通の人になろうとしたと思う。

 

自分を一度捨てる。

 

しかし

自分に嘘はつけない。

 

否定しても

否定しても

自分の中にある

思いは消せない。

 

苦しさは2種類あり

どちらか選択しなければならない。

 

他者からの攻撃を受けないために

自分に嘘をつく苦しみ。

 

自分を受け入れるために

他者から攻撃を受ける苦しみ。

 

これは

何もLGBTの人々だけが

選択していることではない。

 

多少の差はあれ

多くの人が

選択していることだ。

 

首にならないために

上司の好みの部下を演じているとか

 

生きていくために

有利な選択をする。

 

自分のやりたいことをやる。

例えば絵描き。

大体

貧乏だ。

 

自分が自分らしく生きることを

明らかにした瞬間

攻撃される人々の悲しみ。

 

誰でも

隠していることはある。

 

隠している理由は

嫌われたくないから。

疎外されたくないから。

生活できないから。

等々

 

多くは恐怖。

 

人は

自分と違うものに対して

本能的に恐怖や嫌悪感を覚えることが多い。

 

恐怖を感じながら

それでも

一歩を踏み出した人たちは

やはり

人々の心を揺さぶるのだと思う。

 

踏み出したことにより

100いた知り合いのうち

全員が離れていくかもしれない。

 

しかし

もしかしたら

その内

1人は変わらずに

そばにいてくれるかもしれない。

 

彼らは

その時

本当に信頼できる人を見つけることができる。

 

そして

自分自身を受け入れることができるので

苦しいけれど

充実した人生を送れると思う。

 

傍から見れば

大変でかわいそうな人生かもしれない。

 

しかし

本人のとっては

幸せな人生なのかもしれない。

 

そう考えると

いろんな恐怖に打ち勝てず

自分を偽って

社会的に適応している人と

自分を受けいれて

社会から攻撃される人と

はたして

どちらが良い人生なのだろう?

どちらが充実した人生なのだろう?

 

皆さんはどう思いますか?

三方よし。

 

三方よしとする人を最近見かけません。

残念なことです。

 

自分たちの利得や

権利を最大限獲得することに

何の疑いも持っていない人が

多いような気がします。

この傾向は

団塊の世代に多いような気がします。

うっとおしい 笑

 

自分たちが得をする

自分たちが最大限権利を享受する。

 

考え方としては悪くないと思います。

しかし

最近思うのです。

 

誰かが楽をしたり

誰かが得をしている陰で

必ず誰かが苦労していたり

誰かが損をしている。

 

わかりやすい例で言うと

安く良いサービスとよく言います。

確かに

そんな

サービスがあれば

皆さん受けたいでしょう。

私も受けたいです。

 

しかし

安い賃金で

毎日喜んで働く人って

多いのでしょうか?

 

安いということは

お給料が少なかったり

サービス残業などを

強いられている人がいる可能性が

高いと思うのです。

 

対価の少ない仕事を

誰かがやっているから安いと思うのです。

 

それ以外で安い理由は

手抜きをしている。

これに尽きると思います。

 

ファーストリテイリングユニクロ)は

低労働賃金の国

バングラデッシュ等)の人々を

搾取して

安く商品を提供しているという批判を浴びました。

ブラック企業として

元店員と

裁判沙汰になったこともあります。

 

一時

商品の価格を上げて

社員のお給料を上げたり

低労働賃金の国々の人の賃金を

引き上げるチャレンジをしました。

 

素晴らしいチャレンジでしたが

少し高くなった商品を買う人は

減りました。

柳井さんは失敗を認め

今は元に戻りつつあります。

 

一方だけ良いということは

搾取を意味します。

循環しません。

 

搾取は格差を生み

様々な弊害を生みます。

 

搾取されっ放しだと

疲弊していきます。

 

倒れるか

反旗を翻すしかなくなります。

 

商売の世界で考えてみる

とわかり易いかもしれません。

 

労働者は消費者でもあります。

あまりにも低賃金だと

物が買えません。

購買力がない。

 

ということは商品が売れない。

ということは

デフレ圧力が強まる。

会社赤字覚悟で商品売る

社員に犠牲を強いる。

 

デフレスパイラル

 

これは持続可能な経済活動なのでしょうか?

 

日本で起きているのは

正にこのデフレスパイラルだと思います。

 

いくら

アベノミクスだと力強く叫んでも

多くの人は

その恩恵を

実感することはできません。

 

一方よしだからだと思います。

 

自分たちの子供が大人になるわけです。

 

先細りする社会にしてしまうと

子供達の未来はどうなるのでしょうか?

 

私は

このままの状態で進んでいくと

ポジティブな未来を

イメージすることができません。

 

できれば

子供達に

そこそこ

明るい未来を提供したいと思っています。

 

それには

やはり

三方よしの精神で

自分と周りの人たちが

良い方向を目指していく

必要があると思います。

 

誰かの立つ瀬を

奪ってまで

生きていくのではなく

みんなの立つ瀬が

少しずつある社会の方が

そこそこの未来があるように思うのです。

 

それぞれの利が少しずつある社会の方が

持続する社会として機能するように思うのです。

 

皆さんはどう思いますか?

それぞれの真実。

お仕事をしていると

たまに

ヒステリーな人に出会います。

 

話をしていると

自分の都合ばかり言います。

少しでも反論

言い訳をすると激高していきます。

 

挙句の果てに

何で自分は

こんな

ひどい目に

合わなければならないのか?

と泣いたり。

 

それは

こっちのセリフだよ

と心の中で思うのですが。

 

でも

フト思うのです。

 

多分

私と

この人は

見えている風景が違うのだろうな

と。

 

その人から見える風景は

意地悪な担当者と話をしていて

不当に扱われている。

かわいそうな自分が

見えているのかもしれない。

 

それは違いますよ。

 

否定しても始まらない。

 

何故なら

自分が感じたり

見えたりしているものが

その人にとって

唯一の真実なのだから。

 

話は飛躍しますが

例えば統合失調症の人がいたとします。

 

幻聴が聞こえたとします。

他人には聞こえません。

 

でも

聞こえた時点で

その人にとって

聞こえたのは

事実であり

真実なのだと思います。

 

他人に聞こえなくても

自分には聞こえるのですから

その人にとっては

聞こえるのが現実なのです。

 

自分も含め

多くの人は

自分が見えている世界

聞こえる世界が

唯一の真実だと思っています。

 

しかし

同じものを見ていたとしても

見え方や感じ方は

人のよって違うことがあります。

 

もしかしたら

同じものと思っているだけで

全く違うものを

見ているのかもしれません。

 

自分が

絶対正しい

という視点を捨てる。

 

真実は一つだけではなく

人の数だけ

真実があるという風に思うと

解決の糸口が

見えてくることがあるかもしれません。

 

多くの真実があると思うことは

違う価値観を

受け入れる自分へ繋がっていくと思います。

 

それは

否定する考えから

許容する考え方へ

自分を変えることになります。

 

他人を

許容することができれば

多分

生きるのが

楽になれると思います。

 

みなさんはどう思いますか?

 

誰かに判断を委ねる危険。

地震や水害が起きると

いつも行政や

監督機関の責任問題が出てきます。

 

初動ミス

誤誘導

避難勧告ミス

等々

 

そうなのかなー?

といつも思ってしまいます。

 

自分の生き死にが

かかっているのだから

最終的には

自己判断

自己責任だと思うのです。

 

例えば

アフリカで

知らずに

ライオン出没地区へ行ってしまい

運悪くライオンに出くわして

襲われたとします。

 

ライオン注意!

の看板がなかったので

国が悪い!

文句を言う人はいないと思うのです。

 

避難誘導の言い方が悪い

とか

誘導ミス

とか

文句を言ったとしても

それに従ったのは自分の意思。

 

おかしいと思ったなら

従わなければいいだけです。

 

信じていたとします。

信じたのも自分の意思です。

 

従って命を落としたなら

従うという決定を自らに下した

自分のミスだと思うのです。

 

結局

自分以外の誰かのミスだから

何とかしろと言っても

失くしたものは元には戻りません。

 

大事なものであればあるほど

他人の判断に従わない方が

良いと思うのです。

 

大事なものであればあるほど

自分で慎重に考えて

自ら意思決定をした方が良いと思います。

 

その方が

納得いきます。

誰かを恨まなくて済みます。

 

人を恨みながら生きていくのは

自分を責めるより楽ですが

結構

辛いと思います。

 

みなさんはどう思いますか?

障碍者について思うこと

うちは障害児が

2名いるのですが。

身内に

障害者がいるということは

平たく言えば

介護しなければならない人がいると

置き換えても良いと思います。

 

そういう意味においては

老人介護を

しなければいけない家と同じだと思います。

 

介護って何でしょう?

平たく言えば

独りで

身の回りのことが

できない人を世話すること

だと思います。

 

親がいる場合

介護が必要になってくるかもしれません。

 

年を取るということは

徐々に

障碍者になっていく

ということでもあると思います。

 

障碍者と暮らして思うのは

多少の差こそあれ

それ程

変わらないなぁ

ということです。

 

健常者として生まれても

勉強ができない

就職に失敗した

ニート

犯罪者になった

等々

ということになれば

独りで生活できないとか

社会に適応できない

という意味では

障碍者みたいなものかもなーと思います。

 

健常者の中の落ちこぼれと

障碍者って

どっちがマシなのかなーと思います。

 

というのも

うちの親戚に

登校拒否の子供がいるのですね。

その子を見ていると

学校に行きたくても

行けないので苦しんでいます。

 

うちの子は

能天気なので

毎日楽しそうです。

 

自分で考えられないので

就職のこととか

将来のことなんて

全く気にしていません。

その分気楽です。

 

比較して見ていくと

障碍者って

かわいそうという目で見られがちだけど

実は健常者の方が

かわいそうなのかもなーと

思うこともしばしば。

 

いろんな立場の人と接すると

常識というものが

通用しないことが多い。

常識というものは

一つの考え方に過ぎず

万能ではない

ということが良くわかります。

 

今悩んでいることは

常識にとらわれているだけ

なのかもしれません。

 

違う面から見ると

もしかしたら

喜びなのかもしれません。

 

障害者を見ていると

何が正しくて

何が正義で

何が常識なのか

考えさせられることが多いです。

 

死にたくなったら

障碍者施設へボランティアに行くと

何等かの

突破口が見えてくるかもしれません。

『知らない』最強説

はじめまして。

ココでブログを始めることにしました。

よろしくお願いいたします。

 

仕事していると

『知らない』

というフレーズをよく聞きます。

 

このフレーズは最強です。

すべての責任が回避できます。

 

会社の社長が使うと

「報告を

受けていないから知らなかった!」

(だから私の責任ではない!)

(だから

報告をしなかった方の責任だ!)

 

部下が使うと

「上司から、

そのような指示が

出ていたことを知りませんでした!」

(だから俺の責任じゃないよね?)

(指示を伝えなかった

上司の責任だよね!)

 

会社が使うと

「実際には、

協力業者さんがやったことなので、

当社は把握しておりません!」

(だから当社の責任ではありません。)

(協力業者に

責任取らせるから後で連絡させるね!)

 

どんな場面でも責任回避できる万能免罪符。

 

すごい!

 

知らなったで済むなら

警察はいらないと

誰かが

言ったとか

言わないとか。

 

面倒臭いこと

大変なことが

末端に追いやられた結果

弱者の負担が

凄いことになっている気がします。

 

弱者が倒れたら

強者の中で

弱いものが

次の弱者です。

 

転落する恐怖を

抱えながら

生きていく社会

どうなのだろう?

 

個人的には

そんな社会は嫌だなと思います。

 

知らないというのは

関わりを持たないと

いうことだと思います。

 

多分

切り捨てていくことだと思うのです。

 

切り捨てる人は

切り捨てられる人

でもあると思うのです。

 

漠然と

面倒臭くても

繋がる選択をしなければ

いけないのかなぁ

最近

ぼんやり

思います。

 

みなさんはどう思いますか?